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錦織圭選手が、リオデジャネイロ五輪ではシングルスでロンドン五輪に続きベスト8入りすると、3位決定戦でラファエル・ナダルと対戦し、フルセットの末6-2, 6-7(1), 6-3で制して銅メダルを獲得した。
五輪テニス競技での日本人によるメダルは、1920年のアントワープ五輪で熊谷一弥が銀メダルを2つ(単・複各1)獲得して以来、実に96年ぶりの快挙となる。
96年も以前のことで、初めて聞く方も多いと思います、
テニスにとって96年前とはどんな状況たのか?熊谷一也さんとはどんな方だったのかを調べて見ました。
関連記事は以下です。
⇒錦織圭・全豪オープンテニス2016、2年連続ベスト8進出!強さの秘訣とは?
⇒錦織圭の2016年彼女が観月あこと週刊文春がスクープ!バルセロナで試合観戦を激写!
目 次
【① 錦織圭のwiki風プロフ】
【② 96年以前のテニス事情は?】
【③ 熊谷一弥さんとは?】
③ー1熊谷一弥さんのwiki風プロフ
【④ まとめ】
今回はこの4点について紹介いたしたく思います。
錦織圭のwiki風プロフ

◆ 名前: 錦織圭(にしこりけい)
◆ 生年月日: 1989年12月29日(26歳)
◆ 出身地:島根県松江市
◆ 血液型:型
◆ 身長:178㎝
◆ 体重:75㎏
◆ 学歴:青森県山田高等学校卒業
◆ 所属:日清食品
・プロテニス選手です。
・初めてラケットを手にしたのは5歳の時。父と9歳になる姉と一緒に雲南市の公園でボールを打っていたそうです。
・世界ランキングは、自己最高シングルス4位で、アジア人歴代最高位です。
・アジア人男子初、日本人初のシングルス世界ランキングトップ10入りしたのです。
これまでにATPツアーシングルスで日本人最多の11度の優勝を挙げている。ダブルスでは準優勝を1度記録している。
男女通じて日本人初、アジア人男子初のグランドスラム4大大会シングルスファイナリスト。
また、日本人初、アジア人男子初のATPワールドツアー・ファイナル出場者。
2014年マドリード・マスターズ男子シングルス、2016年マイアミ・マスターズ男子シングルス準優勝。
日本人男子史上2人目のATPツアー優勝者。日本人男子史上唯一のATPツアーシングルス複数優勝者。
と輝かしい戦績を残しております。
・2016年、リオデジャネイロ五輪ではシングルスでロンドン五輪に続きベスト8入りすると、準々決勝でガエル・モンフィスとの2時間53分の死闘を7-6(4), 4-6, 7-6(6)で制しベスト4に進出したのです。
続く準決勝ではアンディ・マリーに1-6, 4-6で敗れたものの、3位決定戦でラファエル・ナダルと対戦し、フルセットの末6-2, 6-7(1), 6-3で制して銅メダルを獲得した。
五輪テニス競技での日本人によるメダルは、1920年のアントワープ五輪で熊谷一弥が銀メダルを2つ(単・複各1)獲得して以来、実に 96年ぶりの快挙 となる。
アントワープオリンピックは、1920年4月20日から9月12日まで、ベルギーのアントワープで行われた夏季オリンピックである。第一次世界大戦の敗戦国であるドイツ、オーストリア、ハンガリー、ブルガリア、トルコは大会に参加することを禁止された。
今大会から初めて選手宣誓が行われ、オリンピック旗が初めて掲げられた。
96年以前のテニス事情は?
テニス協会の年表によると、
・1878年(明治11):横浜・山手公園内に外国人居住者の専用クラブとコートができる。
・1879年(明治12):文部省の体操伝習所で、米国人教師リーランドがテニスを紹介!
・1913年(大2):慶応大が硬式(現テニス)を採用し、マニラ遠征をした。
・1916年(大5):熊谷一弥が渡米。全米2位のジョンストンを破り全米5位に。
・1919年(大8):熊谷一弥が全米4位のマレー、2位のチルデンを破り全米3位に。
・1920年(大9):アントワープ五輪で熊谷一弥が単銀メダル、柏尾誠一郎との複でも銀メダル獲得した。日本五輪史上の初メダルとなった。
・1922年(大11):日本定休協会(現日本テニス協会)創立。全日本選手権大会(男子)
開始された。
以上が経過ですが、
「日本に初めてテニスが紹介されたのは1878年(明治11年)であったが、当時はテニスボール製造に必要なゴムが輸入困難だったため、日本独特の軟球ゴムボールを使用した「軟式テニス」が編み出される。しかし、これは通常の「硬式テニス」(日本独特の用語)とは全く異なるものであった。1913年(大正2年)2月19日、熊谷が所属していた慶應義塾大学テニス部が「硬式テニス(ローンテニス)への転向」を正式に表明し、熊谷たちは日本で最初に硬式テニスに挑戦した。同年12月、熊谷は慶應義塾大学のチームメートとともにフィリピン・マニラの「東洋選手権大会」に派遣された。これが、日本人テニス選手の初めての海外遠征である。この時熊谷はシングルス準決勝とダブルス決勝に進出したが、単複とも優勝した全米ランキング2位のビル・ジョンストンから大きな刺激を受けた」(出典:ウイキペディア)
熊谷一弥さんとは?
熊谷一弥さんのwiki風プロフ
◆ 名前: 熊谷一弥(くまがいいちや)
◆ 生年月日:1890 年9月10日(満77歳没)
◆ 出身地:福岡県大牟田市
◆ 身長:166㎝
◆ 学歴:慶応義塾大学
◆ デビュー:1913年~1921年(引退)
・中学時代は、野球のキャプテン。陸上の中距離選手であったそうです。
・4大大会最高成績:全米・ベスト4、
・キャリア自己最高ランキング:シングルス・3位(全米ランキング)、7位(世界ランキング)
・獲得メダル:1920年・アントワープ:男子シングルス・銀
1920年・アントワープ:男子ダブルス・銀
・日本で初めてテニスが紹介されたのが、1878年(明治11年)で、当時はテニスボール製造に必要なゴムが輸入困難だったため、日本独特の軟球ゴムボールを使用した「軟式テニス」が編み出されたのです。
これは、通常の「硬式テニス」とは全く異なるものだったのです。
・1913年(大正2年)2月19日、熊谷が所属していた慶應義塾大学テニス部が「硬式テニス(ローンテニス)への転向」を正式に表明し、熊谷たちは日本で最初に硬式テニスに挑戦した。
・1916年、熊谷は三神と共にアメリカ遠征を実行し、ジョンストンを破るなどして注目される。1916年全米選手権において、熊谷と三神の2人が日本人テニス選手として最初の4大大会出場者になった。(出典:ウイキペディア)
さらに三か月間に60戦を戦い、クレイコートでは全勝したのです。全米ランキングが5位となり、一躍注目の選手になったのです。
・慶應義塾大学を卒業後、熊谷は三菱合資会社銀行部(現在の三菱東京UFJ銀行の前身)に勤務するようになり、ニューヨーク駐在員としてアメリカに拠点を移した
こんなチャンスが訪れていたのですね!
・1920年(大正9年)のアントワープ五輪で、熊谷一弥は男子テニスでシングルス・ダブルスともに銀メダルを獲得し、日本人のスポーツ選手として史上初のオリンピック・メダルを獲得した選手になった。(出典:ウイキペディア)
まとめ
96年ぶりの快挙には、多くの物語がありました。
本当に、テニス 熊谷一弥さんというレジェンドに敬服します。
錦織圭選手の活躍でテニス 熊谷一弥さんという人をも知ることができました。
長男さんの言葉では、負けん気の強い方で、口癖のように
「なぜ金メダルが取れなかったのか」といつも残念がっていたそうです。
錦織圭選手おめでとう、そしてありがとう!
最後までお読みいただきありがとうございます。
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