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3月23日の「情熱大陸」で
「“場所の記憶”を掘り起こす建築家」
として田根剛(たねつよし)さんが登場し感動を呼びました。
弱冠36歳で、エストニアの国立博物館のコンペで最優秀賞を受賞し、また、2020年の東京オリンピック国立競技場のコンペでも、田根さんの提案した「古墳スタジアム」が最終選考まで残り話題となりました。
情熱大陸のストーリを追いながら解説を含めて紹介いたします。
【① 田根剛さんのwiki風プロフ】
【② 学歴と実績】
【③ 情熱大陸ストーリー】
【④ YouTube 画像】
今回はこの4点について紹介いたしたく思います。
田根剛さんのwiki風プロフ
●名前:田根剛(たね・つよし)
●生年月日:1979年9月14日(36歳)
●出身地:東京都杉並区
●職 業:建築家・大学講師
こんな有名な方のプロフにしては非常に簡素です。情報が入り次第強化していきます。
高校時代は、ジェフユナイテッド市原のユースチームに所属してたがけがにより選手を断念した。
<ジェフユナイテッド市原時代>

北海道の大自然に憧れ、北海道大学東海大学芸術工学部建築学科に進学。
在学中に、スエーデンHDKとシャルマス工科大学へ留学。
卒業後にデンマークに渡り、デンマーク王立アカデミーにて客員研究員となった。
その後、ヘニング・ラーセン(デンマーク)、デビッド・アジャイエ(イギリス)の設計事務所に勤務。
2006年パリを拠点にDGT.(DORELL.GHOTMEH.TANE / ARCHITECTS)をダン・ドレル(イタリア)、リナ・ゴットメ(レバノン)のパートナーと共に設立。

26歳で受賞した国際コンペ「エストニア国立博物館」で最優秀賞授賞し、国際的な注目を浴びる。
2008年にはイギリス・ICON MAGAZINE誌より「世界の最も影響力ある若手建築家20人」に選出される。
2012年には、2020年東京オリンピック招致に向けた新国立競技場基本構想国際デザイン競技では「古墳スタジアム」が世界のスター建築家と並んでファイナリストとして選出され「宇宙船か古墳か」と評され大きな話題となった。
<サハ案> <田根案>


2014年、日本の時計メーカーシチズンのインスタレーション「LIGHT is TIME」を発表し、ミラノデザインアワードをダブル授賞。

同年、青山にあるスパイラルにて凱旋展を開催し7万2千人の来場者を記録。
フランス国立グランパレ美術館で史上最大規模の「北斎展」にて会場構成を担当。
また21_21 DESIGN SIGHTでは「建築家 フランク・ゲーリー “I Have an Idea”」展の展覧会ディレクターを務めるなど多方面で注目を集める。
これまで指揮者・小澤征爾の舞台装置や、演出振付家・金森穣(Noism)、デザイナー・皆川明(ミナ・ペルホネン)、デザイナー・三原康裕などとコラボレーションするなど、分野を超えた幅広い活動を行っている。(出典:ウイキペディア)
学歴と実績
• 2000年 シャルマス工科大学留学(スウェーデン)
• 2002年 北海道東海大学芸術工学部建築学科卒業
• 2002年 デンマーク王立芸術アカデミー客員研究員(デンマーク)
• 2003年 ヘニング・ラーセン事務所(デンマーク)
• 2005年 アジャエ・アソシエイツ(イギリス)
• 2006年 DGT.(DORELL.GHOTMEH.TANE / ARCHITECTS)設立(フランス)
• 2012年 コロンビア大学GSAPP非常勤講師
• 2014年 ESVMD大学院客員教授
(出典:ウイキペディア)
④ 情熱大陸(3月27日)
囲いの中が”情熱大陸”の原文。外は解説です。
●国籍:イギリス
●生年月日1950年:10月31日(65歳)
●母校:英国建築協会付属建築専門大学(AAスクール)
●建築物:ヴィトラ社工場、オードロップゴー美術館増築、国立21世紀美術館
●受賞:
• 2002年 – 大英帝国勲章 コマンダー (CBE)
• 2004年 – プリツカー賞
• 2009年 – 高松宮殿下記念世界文化賞
• 2010年 – RIBAスターリング賞(国立21世紀美術館 (MAXXI) による)
• 2011年 – RIBAスターリング賞(エヴリン・グレース・アカデミーによる)
• 2012年 – 大英帝国勲章 デイム・コマンダー (DBE)
• 2016年 – RIBAゴールドメダル[1](女性初[2])
<画像:2020東京オリンピック国立競技場。>

田根氏は、同じプランで臨んだが、思わぬ壁に阻まれて、コンペへの参加が難しくなってしまった。
参加の条件の一つは、すぐにジェネコンと協力体制が組めること、東奔西走したが各社から敬遠された。
「この辺は日本の古くからある、官民のなれ合いとでもいう、古い体質なのです。有名な話に、クロネコヤマトが今のような運送体制になるまでの苦労がそのものです。」
日本ではキャリアが浅いと土俵にも上がることが許されないのだ。
36歳の田根剛は唇を噛んだ!
「国際社会で見た時に、非常に残念ですね!状況としてはあってはならない決断を日本側がしたと自分は理解しているので、気持ちだけの話をしたら、落胆以上に憤慨というか・・・」
静かな口調の奥に怒りがにじんでいる。
作品こそ少ないが、“パリのとらや“ではセンスがいかんなく発揮されていた。

“柔らかな和の組み方、”漆喰の壁の天井は角を立てず、丸みをつけた仕上げ、テーマは“オリジナルの心”インパリ。
テーブルの四隅に匠に曲面を取り入れ、角が出るのを避けている。
これが常連のパリっ子にも好評なのだ。
「このテーブルはお気に入りで、いつも予約しています。」
「デザインもすごく若々しい感じがします」
活動の拠点はパリ、日本を嫌ったわけではないが、煩わしいしがらみと無縁の海外の方が仕事がはるかにやりやすい。
いま、田根にとって初めての巨大建築がバルト三国の一つに完成しようとしていた。
コンセプトは “土地に刻まれた記憶”
「記憶と言うものは、本当にいろんな良いことも悪いことも経験して体験して、そうして物が持っている強さと言うか建築と繋がったときには、それこそ大きな力になるなと思って『場所の記憶』と言うものをずっと探していると言う感じですかね!」
田根の建築家の運命を決めたのは、ヨーロッパのコンペを勝ち抜いた一枚の デザイン画だった!
“建築は記憶だ”
パリに暮らしてもう10年になる。パリが一望できる公園がある。時々ここにきて、
「いろんなきついつらい時は、ここで助けられている。この公園はだいぶ」
家からオフィスまで歩いて10分、田根は目下世界各告で20を超えるプロジェクトを進めている。
それぞれの専任スタッフが合わせて25人。フランス人、イタリア人、ブラジル人もいる多国籍チームだった。
コミュニケーションは英語、ブレインストーミングが始まりこんな討議がされていた。4~5人のスタッフ、女性が1名含んでいた。
依頼を受けた複合施設のデザインについて自由にイメージを膨らませていく。
こんな会話(討議?)が行われていた。
「工場の多いここを僕たちは『グレー地区』と呼んでいる」
「緑や茶色 黄色などのイメージで建てるべきじゃない!そのイメージを変えてみるのはどうですか?」
「あえて本物の気を使わずに、木が植えてあるような雰囲気を出すのは?」
「ただ緑色の植物を使って明るい雰囲気を出すだけの建物なんてつまらない。でも今回の場合は、もし建物と同じくらい力強い植物を使うならいいと思うね」
建築家の仕事はイメージに魂を与えること、田根はプランの決定までに無数のモデルを作る。
どこにどんな素材を使ったらいいか?自ら試せずにはいられない。
何よりも大切にしていたのは、徹底的なリサーチだった。
プロジェクトの使命、建てられる環境、かってそこに存在して建物、ともに過去の資料まで丹念に見つめて、
歴史の延長線上にあって最もふさわしいデザインとは何かを追及する。
「事実は集めるてあるけどポイントは何か?」
「大事なのはモノの元意味だ!それはとても深い場所から何かをくみ上げようとすることなんだ!」
その差異は国際コンペに挑んだ時に生まれた。バルト三国の一つエストニアの国立博物館,
国籍に違う2人の友人とともに100を超えるライバルのプランを退けて、
エストニア国立博物館コンペ 最優秀賞を受賞
何一つ実績のない26歳だった。
「人生が、がらっと180度変わったので、そこから本当にプロとしてこんな大きな仕事をやったことないのに事務所を構えて、できるのか?ってところから手探りで始めたので・・」
建設用低地には、使われなくなった軍用滑走路が隣接していた。田根が提案したのは、あえてその滑走路と一体化するような博物館だった。
滑走路の端から建物の屋根になり、エストニアの歴史を展示するスペースがまっすぐに伸びる。
中心を走る300メートル近い通路は、いわば、エストニアの時間軸だ。
長く旧ソ連に支配されてきた国にとって、軍用滑走路は負の遺産、過去を忘れないアイディアがコンペを制したのだ!
3年前に始まった工事も完成まであと半年、月に一度は現地に足を運んでいる。
旧ソ連の崩壊直前に悲願の独立を果たしたエストニアはナチスドイツにも蹂躙された小国で、民族のアイデンティティを具現する博物館には、大きな期待が寄せられている。
ひさしがせり出したエントランスは奥行き42メートエル、そのエントランスに向かって建物が弓形にせりあがっていた。
外壁にはガラス多用されている。
建物の背後に続くのはおよそ1,2キロの滑走路だ。
空から見ると滑走路の屋根が博物館の屋根と繋がっているのがよく分る。
忌まわしい記憶を宿す軍用滑走路、これを生かす発想には、初め批判の声もあったという。
“過去を忘れない!アイディア一つで世界は変わる” と考えている。
展示スペースには天井から自然光が注ぐ、民族の記憶に思いを馳せて壁面のガラスにエストニア伝統の刺繍柄をあしらった。
博物館や美術館はその国の文化を収める器だ。建築家にとって求められるのは最も名誉だと言われている。完成すればおおそらく代表作になるだろう!
以前から書き溜めてきたアイディアノートを見せてくれた。(16~17冊)

1979年東京杉並区生まれ、サッカー選手になるのが夢だった。高校時代はJリーグのユースチームに選ばれたこともあった。だが、けがで断念した。新たな目標を探して大学では建築家を目指した。北欧への留学も経験した。
いまは日本での仕事も少なくない。
帰国した際に雑誌の取材が舞い込んだ。
呼ばれたのは神奈川県大磯、自分が設計した個人住宅がある。土壁の外観が異彩を放っていた。
田根にとれば、敷地の土を使い、はるか昔、この地に暮らした縄文人の住まいを住宅に加算したのだという。
ここもまた土地の記憶を備えた家だった。

「近代化の中で、リビングやダイニング、子供部屋が生まれてきたんですけど、もともと日本古来の暮らし方は、『居間』と『寝間』という生活の場と眠るばは分けられていた」
竪穴式住居を参考に、一階のリビングは湯垢が地面より低く作られている。
夏は涼しく冬は暖かいのだ。二階はための部屋。例によって角を丸ろやかに見せる工夫が、天井と壁に使っていた。
施主は入学時代からの友人。彼はどんな学生だったのか聞いた。
施主:加瀬さやかさん「思慮深いし、穏やかでもうすぐお爺さんのような落ち着きがあったので・・」
去年は六本木での展覧会の準備が追い込みに入っていた。
憧れの建築家の軌跡をどう伝えるか?力量が問われているのだ!
その人が 建築家 “フランク・ゲーリー”だ。意表を突くアイディアを次々に実現してきた建築家に、彼はずーと触発されてきた。最近もパリに完成させた
“ルイ・ヴィトン財団”(フランス・パリ/2014)の美術館が話題になった。
「I Have an Idea」


本人も会場にやってくる。
「電車に乗りながらも、チョって今までにない緊張感ですかね!」
「ちょっと収まりましたが、さっきは本当に逃げ出したイヨウナドキドキでした。」
建築が生まれるまでの思考回路、田根は発想のプロセスを会場に再現していた。
巨匠と談笑し、肩には手を回され、2人から笑顔がこぼれた。
「アイディアで世界は変わる!」
それを教えてくれた大先輩だ。
2016年2月 エストニアから博物館完成の報告が届いた。

夜に浮かび上がっていたのは近未来を思わせる建物だ。
十年前のスケッチが命を吹き込まれ輝いていた。
田根剛に幸運をもたらした巨大建築、エストニアの国立博物館は、十年の時を経てついに完成した。
博物館に展示物が納められ人々を招き入れるのは今年九月からだという。
受難の記憶を語り継ぐ建物、その重さを支えているのは鉄やコンクリートだけはない!建築家の思想もまた強固な柱だ!長い滑走路から離陸した先に、田根の未来が広がっている。
「描いた線が、膨大なコンクリートによって作られたり、膨大なガラスの壁面によって描かれて内側と外側 地面と空が一本の線によって分かれていくわけですからね・・」
「こんな楽しみを知ってしまったら、それは誰にでもやらせてもらえるものではないので、建築の神様にやりなさいと言われたら頑張るしかないですよね!」
とつとつと語る男はもう次なるステージに向かっていた。パリ、ニューヨークの世界がその才能を待っている。
【多くの画像が公表されておりますがその一部です】
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