小泉純一郎 家系図を紐解く! 父親は朝鮮人か? 絶縁状態の三男はどうしている?

こんにちは。今日もご訪問いただきありがとうございます。

小泉純一郎と言う人を調べると色々な噂の絶えない人ですね。

現政権に異議を申し立てたり、原子力問題で、読売新聞にぶち切れたり、と活動は大きいですね!

その家系は、奥が深く調べれば調べるほど面白さが湧いてきます。

早速、迫ってみました。

関連記事は以下にあります。

⇒小泉純一郎 アメリカで涙の理由!福島原発のトモダチ作戦参加兵士の心とは?

今回はこの9点について紹介いたしたく思います。

小泉家の家系の概要は?

小泉家は純一郎氏の曽祖父・由兵衛氏、祖父・又二郎氏、父・純也と続くが父・純也氏は婿養子です。

曽祖父・由兵衛氏の時代に(現在の神奈川県横浜市金沢区で)軍艦に砲弾や燃料、

食糧を積み込む港湾荷役師として財をなしてきた、海軍と密着し戦争とともに成長した政商とあります。

そして曾祖父の由兵衛氏は「気っ風と腕っ節」根性がものを言う商売だったと

息子の又二郎氏は言っています。

又二郎氏の友人によれば彼は餓鬼大将の称あり、学問も丸でしたことも無く、柔道撃剣の心得もないが
喧嘩が早くて腕っ節が強かったと言われていました。

14歳で小学校を卒業後、鳶の仕事を継ぐのを嫌がって海軍士官学校予備校の旧制攻玉社中学

に入るが父に連れ戻され母校の代用教員となりますね。

(そんな簡単に代用教員になれるのでしょうか?

だけど又、飛び出しますね、今度は陸軍士官学校予備学校に入り板垣退助の普選運動の演説に

感銘をうけます。

1・1<一寸、横道にそれますが選挙制度の勉強をしてみましょう!>

昔、選挙が始まった頃は1889年(明治22年)の衆議院選挙の時には選挙権の有る人は

直接国税15円以上納めている25歳以上の人とされていました、

全人口の1%の人しか投票できませんでした1890年(明治23年)当時の人口は

約男2000万人、約女1900万人計約3900万人~4000万人です、

その2000万人中僅か20万人位しか選挙に参加できませんでした、全国で・・・

(この当時牛乳1本3銭、15円とは現在の約60万~70万位と考えられます)

現代では普通のサラリーマンでも年間それ以上の税金は納めていますから・・・

明治23年だと、そういう一握りの人にしか選挙権のない状態でした、

それに反発して誰にでも選挙権を与えるべく運動したのがこの普選運動です。

板垣退助さんです、そして小泉又次郎氏もこれに賛同します。

(因みに板垣退助さんは100円札の肖像で覚えている人もいますよね。)

その後納税条件が10円以下になり、3円以下になって

1925年(大正14年)にやっと25歳以上の男子による普通選挙が始まります。

(それでも女性は未だ選挙権が有りませんよ)

1945年(昭和20年)ついに満20歳以上の男女すべての日本国民に選挙権が与えられます。

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小泉家の長男・又次郎は?

小泉又次郎氏は士官学校予備学校にいましたがそこも兄の急死の為に父に又連れ戻され

家業を継がされます、この兄の急死が有るのに又次郎さんが繰り上がって小泉家の長男になります。

この辺に少し違和感がありますね、調べた人に依ると兄の名前等、全然解らないようです。

長男とされた又次郎氏は今度こそ軍人を止め、とび職人になる決意の表れとして

刺青をいれたと言われています、当時、軍人で入れ墨は禁止されていて、

入れ墨があると軍人に成れなかったのです。

又、例え倅とはいえ素人が現場を仕切って「親分」とよばれるように成るには

入れ墨でも入れて箔をつけないと、何も出来ない時代でした。

それでもやはりとび職人を嫌って東京横浜新聞の記者になります。

その頃に芸者だった綾部ナオさんと結婚します。

政治の道にも足を踏み入れピストルを懐に入れ演説会等を仕切るようになります。

親分として現場を取り仕切り巷間で人望を集めるように成って

1908年(明治41年)神奈川県議・横須賀市議を経て衆議院議員に当選します。

代議士になっても常に野人を標榜し、「野人に名誉は要らん、俺は大臣なんかならん」

と言っていましたが浜口内閣と第2次若槻内閣で逓信大臣を務めます。

「仕方なく大臣を押し付けられて野人の歴史を汚して残念」と言い

世間からは「入れ墨大臣」「入れ墨の又さん」と囃したてられました。

本当に人気のある庶民派政治家では有ったようです。

大臣就任時も大礼服を持たず知人に借りてその場を凌いだそうです。

その後、地元民の募金援助で大礼服を仕立て上げたほどの人気者でも有りました。

家業の方は弟の岩吉に任せています。

この岩吉さんが実直な人で家業を大いに盛り立て兄を助けていきます。

正妻ナオさんとの間には子供が出来なかったのですが、ご多分にもれずお妾さんがいますね

石川ハツ、寿々英(すずえ)等

石川ハツさんが未婚のままヨシエさん(小泉純一郎氏の母)を生みます。

石川ハツさんはその後、又次郎氏の配下の者と思われる山口忠蔵さんと結婚し

ヨシエさんは子供の居ない又次郎さんが認知して「小泉芳江」となります。

芳江さんは後年、貰い子だからとその事を大分意識していたようです。

この辺にも違和感を感じますね。

貰い子ではなくて正妻の子ではないが又次郎氏の実子のはずですからね。
どう言う経緯だったのかな?

この芳江さんはハンサム好きでハンサムな男を見るとイチコロだそうです。
又次郎氏の養女だった近藤壽子が言っています。

そして母芳江さんと鮫島純也(純彌・すみやとの説も有り)氏の物語に移っていくわけです。

小泉芳江さんは1929年(昭和4年)日本女子大学、家政学科を卒業し
問題のハンサム男の出現です。

立憲民政党の事務職員だった鮫島純也と知り合い、

東京・青山のアパートで同棲をはじめますが駆け落ち同然です。

父親と言うのは今も昔も娘には弱いのですね。

この駆け落ちも又次郎氏が許して婿に迎えますが条件を出します。

それが「代議士になれたら許す」というものでした、純也氏の頑張りどころです。

鮫島純也氏は1937年鹿児島県から立候補して当選します、目出度し目出度し!
そして最後には又次郎氏の地盤を貰って1952年神奈川県から出馬して当選します

純也氏の出自に関しても色々取りざたされていますね。
多少ダブる部分もありますが聞いて下さい。

純也氏の幼少の頃の友人の証言によると父親が鮫島彌三左衛門という方で、

そのお父さんの代までは

「近所でも有数の網本だったがシケで船を無くして没落して、その後も不幸続きだった」

と言っています。

父親が早くに亡くなり母親が三男六女を育てますが三人の子供が亡くしています。

純也氏も小学校を出ると働きながら勉強を続けます。

一時期朝鮮銀行に勤めお茶汲みの様な仕事をしながら、

やがて代議士岩切重雄氏の書生となり日大法学部夜学に通わせて貰いますが卒業者名簿に

その名前はないとも噂されています。

この当時、家に金を入れるために働いていますから学校へ行くことも大変な時代です

貧しいながらも向学心に燃えていたと言う事ですね。。

卒業後は鹿児島出身の床次竹二郎の指導を仰ぐこととなります。

そこで岩切氏の紹介で立憲民政党の職員となり、

当時民政党の幹事長を務めていた小泉又次郎氏のもとに出入りし、

それが縁となり小泉家の家族と接するようになります。

やがて小泉家に出入りするうちに又次郎氏の長女・芳江さんと恋仲になる。

先にあった様に「ハンサム」に弱い芳枝さんがイチコロで惚れてしまったのでしょうか?

駆け落ちしますが一人娘に弱い又次郎氏が「帰って来い」

と新聞の尋ね人蘭に広告をだして実家に引き戻しますね。

そこから婿養子へと進むわけです。

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父・純也氏の代議士時代

そして婿養子となった純也氏は神奈川県出馬して代議士になり紆余曲折を経て
第3次池田内閣、第1次佐藤内閣では防衛庁長官を歴任します。

そして議員時代に北朝鮮送還事業、地上の楽園事業、初代会長を務めています。

その理由として国際政治経済情報誌編集長の歳川隆雄氏の談によると選挙区の神奈川3区に
多数の在日朝鮮人が居住している川崎市が含まれているためと推測している等のコメントも有ります。

純也氏自身が朝鮮部落の出身でどこからか鮫島姓を名乗ったとも言われています。

先にも書いた様に日本大学の卒業者名簿にはこの鮫島純也と言う名前が無いのです。

先般朝鮮総連の土地と建物を落札させ、安倍総理とも親交の深い池口恵観氏の本名が
鮫島正純と言う名前です、まさに一字違いなのです、池口恵観氏は小泉純一郎氏の
従兄弟だと言っています

小泉純一郎氏が訪朝の時、金正日氏から「貴方のお父さんは北朝鮮の人だよ」

と打ち明けられたとの話も聞かれます。

小泉氏が訪朝し5人の拉致被害者が帰国出来た事は大いに評価されるべきだと思います。
この父親の出自の問題があったからかも解りません。

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小泉純一郎氏の登場

小泉家に戻ります。
芳江さんと純也氏は三女二男をもうけました。

これから小泉純一郎氏の登場です

2男3女の姉3人の下の長男として育てられます。

純一郎氏は県立横須賀高校から慶応大学経済学部を卒業しますね

県立高校から慶応へ家庭教師もつけて猛勉強したのでしょうね。

2浪して慶応でも2~3留年しています。

慶応時代に一寸した事件を起こしています。

レイプ事件とか色々言われています。
それで逮捕され、「俺の親父は防衛庁長官だぞ」と息巻いたと言われています。

逮捕されますが父親の力で事件はもみ消されて被害者とは示談で解決凍ますが、

その当時純一郎氏は精神病院に入院します。

そして事件から逃れるようにイギリスのロンドン大学群の

ユニバーシティー・カレッジ・ロンドンに留学しています。

学生時代同期で出会った栗本慎一郎氏によると小泉純一郎氏は

浮いているというのではなく沈んでいたと言っています。

殆ど友達と言える人は居なかった様です。

人付き合いの出来ない、流行遅れの角帽を被ったキツネ目の男と称しています。

友達も居なくて少し麻雀をした程度の人が友達となっているのだろうと栗本氏は言っています。

 

3年に上がる前の単位が足らなくて留年しますし事件を起して、

2年間留学するので知っている人はいない状態でした。

ロンドンでも英語が出来ないため取得単位もゼロです。

栗本慎一郎氏が政治家となって自民党で一緒に活動していますが、

その後「パンツをはいた小泉純一郎」と言う本を出版しています。

内容的にはここまで扱き下ろして良いのかなと思ってしまします。ボロンチョンですよ!

留学中は悠々自適で遊んで居たのでしょうかね。

1969年(昭和44年)8月に父純也氏の死により急遽呼び戻されて

12月に亡父の弔い選挙となる衆院選に立候補しますが見事落選です。

地盤、看板、かばんが有りながら学生時代に起こした事件が仇となったそうで

地元では有名な話のようです。

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福田赳夫氏との出会い

その後、福田赳夫氏の秘書兼書生となり政治家としての薫陶を受けます。

福田氏からは

「こいつは意地の張った凄いやっちゃ大物になったらとんでもない大物になるけど

逸れたら処置ない奴ぜえ」

と言われていたと初当選して福田氏の元で勉強中の塩川清十郎氏が後日談で語っていました。

やはり又次郎さんの血を受け継いでいたのですかね。

父の純也氏も苦労人でしたからね

1972年(昭和47年)第33回衆議院選挙に自民党公認清和会(福田派)から立候補し

初当選を果たし、そこで飯島勲秘書官との出会いとなるわけです。

この人に関しても朝鮮とかの噂もあります。

佳代子さんと結婚・離婚

1978年(昭和53年)エスエス製薬の元会長泰道昭山の孫娘の宮本佳代子さんと

お見合いし即、結婚を決めます。

佳代子さん側では祖父の泰道昭山氏等が反対で絶縁寸前まで行きますが純一郎氏の

「白紙のままで来てほしい」との言葉にほだされ、結婚を決めます。

結婚期間が5年たらずですがその間に孝太郎氏、進次郎氏が生まれ、

進次郎氏が2歳の時に離婚することになり、進次郎氏は母親を追いかけて泣いたそうです。

小泉家では姉の信子氏が母親代わりで兄弟を育てますが、

やはり母親の居ない進次郎氏は家族に憧れているようです、コンプレックスとなってもいるそうです。

離婚が決まった時もお腹に三男佳長氏を孕んでいましたがそのまま離婚します。

原因は未だに解っていませんが、佳代子さんの実家が創価学会員だったからとか言われていますが

そうだとしたら結婚前から解っていた事だと思いますけどね。

小泉家では従来これまでを母親と姉達が選挙を含めて全てを取り仕切って来ましたから、

幾ら嫁とは言え外から入って来た若い佳代子さんを女性陣が受け入れなかった事も

離婚に至った原因とも言われています。

離婚の時、純一郎氏の言葉は「君子去る者は追わず、来るものは拒まず」の心境なりと語っています

又一方では純一郎氏の性癖の問題だとも言われていますね。

サディステックで性交中女性の首を絞めるような行為があったとか?

首相在任中にも新橋の芸者、「小はん」自殺事件でも疑われています。

1992年5月東京港区三田の豪華マンションで小はん事、

奥貫浩子さん(31歳)が死体となって発見されます。

第一発見者は母親の奥貫和子さんです、遺書に「疲れましたごめんなさい」

とあったそうですが母親は一貫して自殺を否定しています。

真実は闇の中です!

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佳代子さんのその後の活動

結局佳代子さんは離婚して実家に頼る事もできたのですが

自分で独り立ちして子供を育てるべく出産後、三井不動産のグループ会社に就職し

60歳を迎えた時にシニア女性史「いきいき」に手記を発表します。

<▲娘時代>            <▲結婚式>        <▲綺麗なお母さんですね!>

三男の佳長氏の親権の問題で揉めた時も純一郎氏からは養育費も出さないと言われています。

佳長氏の高校時代はアメリカ留学で全寮制の生活を経験し大学は京都外大で中国語を勉強します。

そして就職もお母さんと同様に不動産関係の会社に入ります。

三男の佳長氏は父親が総理まで務めた人で当然、自慢したいと思いますが母親の佳代子さんは

「父親が有名でも、貴方は関係ない、あなたの母は一サラリーマン、

勘違いしないで生きて行きなさい」

と諭します。

とは言うものの総理まで務めた人が父親だと思えば誰でも一度は遭って

優しい言葉を掛けて貰いたいと思うのが人情ですよね。

一度も父と呼ぶことも無く、遊んで貰った事も無いのですからね。

佳長さんも会いに行くのですが秘書を通して断られます、

又佳代子さんも純一郎氏の母親が亡くなった時せめてご焼香でもと思い

葬式に参列しようとしますが、これも断られます。

葬式へも駄目なの?純一郎・お前はなんなのだ? との思いでは、なかったでしょうか?

我々としては、ここまで拘るには何が有ったのかと思いますね、本当に人間性を疑いますよ!

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・三男・佳長氏と会う

そして2008年純一郎氏が政界を引退し、全てを進次郎氏に任せ、

三男の佳長氏と会うことも許されて、進次郎氏の仲介で三人の兄弟が顔を合わせる事となります。

 

進次郎氏ー1

<▲宮本佳長氏>
幸太郎氏                進次郎氏
<▲長男・孝太郎氏 >        <▲次男・進次郎氏>

そして佳長氏は2013年大学の同級生の方と結婚します。

「入学した時は同級生でしたが卒業した時は佳長氏は後輩になっていました」

とスピーチで言われたようです。

佳長氏の結婚式では兄二人(独身の二人ですね)が出席し華やかに都内の一流ホテルで

行われますさすが純一郎氏は不参加だった様です。

この辺は良かった、良かったとハッピーエンドかと思わせますが、

相変わらず変人の父親は不参加ですね。

まとめ

佳長氏の知人の話によりますと

「これからは(佳長氏の事)みんなで一緒に面倒見て行きますから」

と孝太郎氏が言っていたそうです。

母の佳代子さんの話によると眼の細い三男の佳長さんが

一番父親似で眼の大きな孝太郎氏は母親似二男の進次郎氏はその中間だ

とコメントされていますね。

お母さんとしても嬉しいでしょうね!

そして2008年純一郎氏が政界を引退し、全てを進次郎氏に任せ、

三男の佳長氏と会うことも許されたそうですが、

次の時代を子供の好きなように任せた決断は、

いかにも、小泉純一郎らしいケジメであり決断だったのでしょう!

しかし、原子力については、安倍首相に任せるわけにはいかない!

この差は重要ですね!

この重みを私たちは、汲み取らねばならないでしょう!

最後までお読みいただきありがとうございます。

 

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