糸川英夫という天才・変人の生きざまと名言は?はやぶさ・ロケットへの家族の反応は?

こんにちは!今日もご訪問いただきありがとうございます。

 

所沢航空発祥記念館(埼玉県所沢市)で日本のロケット開発の先駆者、糸川英夫の功績をたどる特別展

「空から宇宙へ ―糸川英夫とはやぶさ―」

を開催している。会期は2月1日までです。

12月13日NHKで放送の「先人たちの底力 知恵泉」に取り上げられることで話題になりました。

なお、2014年12月3日に種子島宇宙センター大型ロケット発射場からH-IIAロケット26号機で打ち上げられた[小惑星探査機「はやぶさ2」は、

これから6年、約52億キロの旅を経て、東京オリンピック・パラリンピック競技大会開催の32年に、地球へ帰還の予定となっているのです。

この機会を利用して、ロケット開発の父・天才・変人と言われた糸川英夫の人物に迫ってみます。

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糸川英夫プロフィール

◆ 生誕:1912年7月20日(明治最終年45年生まれ、10日後は大正元年です)

◆ 死没:1999年2月21日(87歳)死因は、多発性脳梗塞でした。

◆ 生誕地:東京都港区西麻布、小学校時代は六本木(飛び級で卒業)、中学校時代は青山で育ちました(首席卒業です)。

◆ 父:荘吉・麻布笄小学校教師~実業高校校長も務めた。

◆ 母:梅子

◆ 本人:英夫、この名前は東大首席卒業の銀時計受賞者・鳩山秀夫にあやかる。

◆ 兄:一郎、因みに鳩山秀夫の兄が一郎、後の総理大臣、「賢弟愚兄」と言われたが兄も東大

◆ 1995年:ペンシルロケット水平発射実験&ベビーロケットの発射

◆ 1956年:カッパロケットの発射

◆ 1960年代:ラムダロケット、ミューロケット人工衛星「おおすみ」の開発

◆ 2010年:「はやぶさ」が持ち帰ってきた小惑星に「イトカワ」と命名される

◆ 2006年:早稲田実業学校校門前に「日本の宇宙開発発祥の地記念碑」が建立

◆ 2015年:『逆転の発想』がベストセラー

趣味が多彩で、バレエ、占星術、チェロ、ヴァイオリンなど様々なことに興味を持っていたそうです。

「逆転の発想」よく聞く言葉ですが、実は糸川英夫が世に広めてそうです。また「不具合」は糸川ロケットが失敗した時の富士精密工業の造語だと言うのですね!

小惑星が「イトカワ」と命名されたことの関しては、後の記事の中で述べております。

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糸川英夫少年時代

糸川英夫少年は、東京の西麻布で生まれで、4歳の時にトーマス・スミスというパイロットが青山練兵場で飛行機のアクロバット操縦を披露し、それを見せられて感銘を受け

「将来、絶対パイロットになって空を飛びたい」

と大空への憧れを抱きます。

幼い時の“夢”は、何気ないキッカケで生まれるものなんですね!大事に育てるのが大人の役目だと思いますよ!

英夫少年は、好奇心の塊のような少年で、5歳の時に糸川家に初めて電球がつけられ、
これは父の手品だと思います。

しかし、それが手品でないと知り、父に尋ねるのです。

これはトーマス・エジソンと言う人が発明したんだと聞いて、ビックリ!

翌日、直ぐに父は、絵入りの「エジソン伝」を買い与えます。

ここでも英夫少年は感銘を受け、今度は大きくなったらエジソンみたいに成ると決意するのです。

この辺が普通の父親と違っているのですね!
直ぐに絵入りの本を買い与える所が教育者ですね!

そして小学校に入学します、成績はボロボロです。
何故なら頭が良すぎて授業が退屈で仕方無いのです。

算数のテストでは鉛筆を転がして当てずっぽうに答えを書いて
どれくらいの確率で正解がでるか考えます。(データー収集ですね)

そこで母からのアドバイスです

「隣に耳の不自由な友達が居るのであなたが教えてあげないと駄目でしょ」

と言われて彼の家庭教師の様な事をやります。

また、向かい側に座ってる友達に解るように字を逆に書いてあげるように練習します。

父母ともに良いアドバイスをしますね。
親が優秀だからその子供も出来るんですよね。

英夫少年は凸レンズや磁石に夢中になります。

物を大きく見るだけで無く太陽光で火が付く事に気付き色んな物を次々に燃やし始めます。

周りが火事を心配する位熱中し、色んな物を燃やすのです。

その他にもベーゴマにも熱中し不眠症に陥るほどのめり込みます。

中学3年の時、チャールズ・リンドバーグが大西洋を33時間29分30秒かけて無着陸飛行に成功するのです。

これに英夫少年は大変に感動とショックを覚えます。

でもでも、何故、日本人がこれをやらないんだ、そして未だ太平洋は飛んでない、それなら俺が太平洋を飛んでやろうと考えます。

第一東京市立中学時代、バスケットボールをやるも首席だったのです。

その後、東京高校理科甲類に進んで音楽部で3年間学級総代です。

東京大学と進みますが、東大に進む前に兄の一郎に

「東大のどの学部が一番難しいんですか」

と質問します。

兄が答えて言うには航空学科だろう!

何しろ全国の優秀な学生の中から9人しか合格させて貰えないのだからと聞いて、
俄然やる気をだして、合格してしまいます。

天才ですから・・・

飛行機設計者

卒業後は群馬県太田市にある中島飛行機(現富士重工、スバル自動車の前身ですよ)に就職します.

遂に飛行機野郎です。

糸川英夫氏は中島飛行機で小山悌(やすし)氏が設計主務で責任者で、糸川氏は空力担当です。

その他太田氏、青木氏、一丸氏等を含む研究陣は1937年4月「九七式」という単座の軽戦闘機を作り世界最高傑作と評価されます。

1941年戦闘機「隼」1942年「鍾馗」などを完成させます。

糸川氏としては隼より鍾馗の方が良い飛行機だと考えていました。

 

(▲一式戦二型機 隼 )    (▲残骸の採寸や図面から作られた隼「新造機」)

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(▲戦闘機・鍾馗 イラスト小池繁夫氏)
(出典:https://www.ei-publishing.co.jp/articles/detail/others20151218-412216/)
(出典:http://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/cl-pln3/FR052.html)

 

その当時ライバルとして上げられる堀越二郎という人が三菱重工で海軍用に零戦を作っています。

中島飛行機は主に日本陸軍向けなのです。

 

(▲零式設計主任・堀越二郎氏 )    (▲零戦二一型)

この堀越二郎と言う人は糸川さん同様に東大の航空学科の出身で、群馬県出身者ながら三菱重工業に入社し海軍向けに戦闘機を作ります。(中島飛行機は群馬県太田市)

特に堀越二郎さんのゼロ戦は宮崎駿監督のアニメ「風立ちぬ」等で紹介され最近、有名になりましたね。

片や糸川さんの隼は昔々「加藤隼戦闘隊」として映画にもなり日本陸軍航空隊の活躍が有名です

ただ、堀越二郎さんは終戦後、糸川さん同様、飛行機の研究・開発が禁止されその後三菱重工業で参与まで務め、退職後東京大学宇宙研究所の講師、防衛大学の教授等の仕事にも付かれています。

80歳で亡くなられたときはアメリカのニューヨークタイムズ等世界の新聞にも載っています。

このライバルの二人ですが年齢からすると堀越さんが9歳年長で、どちらも天才ですから大学の教授が二人をそれぞれ三菱と中島の双方に分けて就職させたのでしょうね。

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終戦後GHQから飛行機の製造、研究を禁止されます。

糸川氏は当時の心境を

「(糸川)-(飛行機)=0」

と評し、一時は自殺まで考えます。

その後、戦時中の無理がたたって病気がちになり東大病院に通って居たとき、医師との会話がキッカケで脳波の診断機の開発を頼まれます。

その研究に着手した糸川の頭の中には好きな音楽のチェロやバイオリンに共通する音の振動がありました。

ペンレコーダー式の脳波測定器を日本で初めて作るのです。

その後も理想的なバイオリン製作に熱中する事で精神の危機を乗り越え、1946年東京大学工学部で論文「音響イムピーダンスに依る微小変異測定法に関する研究」で博士号を取得します。

この脳波測定器の研究が認められシカゴ大学から招聘され1953年渡米します。

ロケット開発

シカゴ大学の図書館でたまたま「スペース・メディスン(宇宙医学)」という本に人間が宇宙に行った場合に人体にどんな影響を与えるかと言う事が書かれていました。

そこで、アメリカは人間を宇宙に行かそうと考えているのか?と考え、こんな事をしていては駄目だと思い帰国の途に就きます。

帰国後太平洋を20分で横断する「ロケット旅客機」構想を新聞に発表し、各方面からの協力を仰ぎ東大の生産技術研究所内にAVSA(航空及び超高速空気力学)研究班を組織します。

そこでロケットを作るメーカーを探しますが中々協力者が現れません.!

松下幸之助氏に依頼するが

「ロケットなんて儲かりまへん、50年早いでしょう」

と相手にもして貰えません!

そんな中、やはり協力してくれたのが中島飛行機の後身である富士精密という会社でした。

そしてロケットエンジンの燃料を探しますが欧米で使われてる液体燃料ではなく、
固形燃料をさがし日本油脂の村田勉氏から朝鮮戦争で使われていたバズーカ-砲の燃料を提供して貰います。

まるでマカロニのような小さな燃料です。

それを元にして小型ロケットが試作され、その中で長さ23㎝直径1.8㎝重さ200gのペンシルロケットを作り1955年2月末国分寺駅前の新中央工業KK廃工場跡地にて水平発射実験に成功します。

現在の早稲田実業高校(国分寺市)に日本ロケットの草分けの地として記念碑が建てられています2015年に60周年を迎えて還暦祝いの催しがあり、皆さん集まって盛大にお祝いされていました。

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(▲日本の宇宙開発発祥の地 顕彰記念碑)

東京都国分寺市本町1-2-1 早稲田実業学校校門

昭和30年(1955)、糸川英夫博士率いる東大生産技術研究所が、南部銃製造所跡(現在の早稲田実業学校)で、長さ23㎝の小型ロケット(通称ペンシルロケット)の水平発射実験を行いました。

平成22年(2010)6月14日に帰還した探査機「はやぶさ」が向かった小惑星「イトカワ」の地名の一つは、宇宙開発発祥の地「国分寺」と命名されてます。

その年の8月には本格的な飛翔実験を行うために秋田県道川海岸に発射場を移設しベビーロケットに続き観測ロケットを目指したカッパロケットの打ち上げ実験が行われます。

1958年にK-6型ロケットが高度60kmの到達に成功し見事国際地球観測年への参加を果たしロケット開発の世界デビューしたのです。

その後発射場が日本海側だと大陸に達してしまうため太平洋側に移設する必要性に駆られ日本全国を視察して回ります。

しかし中々思うような場所に巡り会えません。

遂に期限間近になり鹿児島県内之浦を視察しますが山ばかりです。

そこで糸山英夫氏の「逆転の発想」です。

この山を崩して平地にしてその土で道路を作れば良いのだと判断し周囲の反対を押し切って工事に着工します。

陸の孤島と言われていた当時の内之浦ですが住民を含めての全面的な協力により高度1000km級のロケットとしてラムダロケットの開発をスタートし
1970年日本初の人工衛星「おおすみ」の打ち上げを成功させます。

しかしながらその前1966年の相次ぐ失敗に朝日新聞の猛烈な批判記事で糸川英夫氏は宇宙開発から引退し後身に道を譲ります。

それまででも糸川氏は常に「失敗は糸川の責任」と言えと部下の人達にも伝えていたような人で自分が辞めることに依ってこの事業が継続できるならと考え引退を決意するのです。

中学、高校、大学と常に競い合った人が後に朝日新聞の科学部長(木村繁氏)になるのですが、彼も秀才で、一番をめざして勉強して、勉強しても、常に糸川氏が上に居たそうです。

そうした競争に勝てなかった木村繁氏が糸川氏を終生嫌い、常に批判的な記事を朝日新聞に掲載したと言われています。

糸川氏の後輩にあたる的川泰宣JAXA名誉教授がその当時を振り返り、NHKは好意的で、その他の新聞社は殆ど無関心だったのに朝日だけは徹底的に批判したと述懐されています。

しかし、事はそんな簡単なものでは無いようです。

その裏にはアメリカの液体ロケット技術を買わせるように勧めた三菱重工を含めて宇宙開発事業団、科学技術庁、朝日新聞等の、アメリカ連合軍らに足を引っ張られたのではないかとの意見も有ります。
成功者には常におもしろく思わない人間が居るのですね!

糸川氏の家族構成が殆ど語られることは有りませんが結婚して子供さんもありましたが、ペンシルロケットが打ち上げられた当時から岩泉定江さんとの関係も取り沙汰されて研究費がその女性に流れている等の噂も囁かれ東京大学宇宙航空研究所を退職された一因ともされています。

一種の不倫相手と言えるのでしょうか?通称は“アン”さんといっておりました。

友人のブログからその関係が、明らかになっております。

糸川先生が倒れて入院した時は、ずーっとそばにいて手を握り、

「私は今、一番幸せだわ。英ちゃんがやっと私だけのものになった!」

と、綴っていたのです。

これは、巷で起こっている低俗な不倫ではなく、この世の常識や、人が作ったルールを超越した「愛」確かな“愛”と“尊敬“の証だと思います。

家族やお子さんは?

・お父様は麻布の笄小学校の教師をされていて、教育熱心だったようです。
英夫少年は、好奇心の塊の様な少年で、5歳の時に糸川家に初めて電球がつけられ、
これは父の手品だと思います。

しかし、それが手品で無いと知り、父に尋ねるのです。

これはトーマス・エジソンが電球を発明したと聞いて、ビックリ!

翌日、直ぐに父は、絵入りの「エジソン伝」を買い与えます。

そこから自分もエジソン見たくなりたいと思ったそうです。

お兄さんは「糸川一郎」さん(東大工学部土木科卒)という方で、血筋はここでも継がれております。

・お母様の情報は今のところ不明です。

また、糸川英夫さんご本人も奥様とお子様がいらしたようですが、ずっと離れて暮らしていたようで、情報はわかりません。

ですが、きっとはやぶさのうちあげを誇らしく見守っていたのではないかと思います。

その後の糸川氏

その後、岩泉定江さんと同居されてイスラエルの事を勉強し、後にイスラエルからの要請で両国を結ぶ協会を立ち上げて欲しいと懇願され「日本テクニオン協会」を立ち上げられます。

その当時イスラエルとの交流は日本ではタブーとされてましたが岩泉定江さんからの助言で成し遂げられるのです。

この岩泉定江さん自体もご主人も子供さんも有る方で双方ともに今に言うダブル不倫ですがそれは、この世の常識や、人が作ったルールを超越した「愛」で結ばれた関係であると、後にこの協会の会長を受け継がれた赤塚高仁氏が述べられています。

それからも1975年62歳から始めた「バレエ研究」の成果として貝谷バレエ団の公演「ロミオとジュリエット」のモンタギュー伯爵役で帝劇デビューです。

先生からは未熟だと止められたそうですが本人の希望で無理矢理出演でしょうか?

1992年には長年研究したバイオリン「ヒデオ・イトカワ号」を45年掛けて完成させ80歳の誕生日を期してサントリーホールでコンサートを開催されます。

1999年長野県丸子町にて86歳で逝去したのです。

2003年には宇宙研究所の小惑星探査機「はやぶさ」がサンプルリターンを成功させ、その小惑星に「イトカワ」と命名されます。

 

(▲「イトカワ」)

なぜ“変人”と言われたのか?

このことは、周囲の方々の記述から知ることが出来るのです。

元「はやぶさ」プロジェクトマネージャー川口淳一郎博士が

「日本の宇宙開発の父であり小惑星イトカワの名前の由来にもなった、糸川英夫先生は変人だったといわれています。」

と言っていた事。

研究員の柳沢雄二さんも

「東大生研の先生方は、変人扱い、人と変わっていると言われると嬉しがっておられた。酒宴の席なので、面白おかしく話してくれたのだろうが、要は研究の独創性を重んじるということと理解した。」

と言っていた事

「60歳を過ぎてからバレエをはじめ63歳で公演の舞台に立った」

事など、前述したように、趣味が多すぎて謎めいているのです。

前人未到のロケット開発技術者が、バレエ、占星術、チェロ、ヴァイオリンと全く世界の異なるものに興味を持ち、発表会に出演するまでのめり込んでいるのです。

ことからも、現代にそんな方を見かけてら、間違いなく“変人”と呼ばれることでしょう!

こんなこともあります

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糸川博士が晩年を過ごされた上田市生田の糸川邸が「喫茶店じねんや糸川」としてオープン

糸川博士の講演で「名器ストラディバリウスの再現は不可能」という言葉に触れ、バイオリン製作に人生を賭けた在日韓国人

陳晶鉉(チン・チャンション)氏 アニメやTV番組(草なぎ剛主演)でも紹介されております。

「必ず名器を作るという信念でこの道を選んだわけではない。面白いと思ったことをやる以上、人生を棒に振ってもかまわないという気持ちだった。」

韓国・慶尚北道梨川村生まれの在日韓国人のバイオリン製作者で、「東洋のストラディバリ」と称される。

糸川英夫氏名言集

◆ 『頭の中に古い考えが頑張っていると、新しい情報が入ってくるのを拒否するから、せっかくの新しいメッセージも届かない。』

◆ 『(自分にできること)よりも、(世の中がもとめていること)に挑戦しつづけたほうが、人生も楽しい。』

◆ 『目標に向かって一段ずつ階段を上がっていく上で、いちばん肝心なことは、必ず、最初の一段を上がるということである。そしてまた次に一段上がるということである。』

◆ 『人生で大切なのは。失敗の歴史で有る。』

◆ 『時代感覚をシャープにするにはどうしても頭の中から旧型商品の在庫一掃をする必要が有る。』

まとめ

調べて見ると、いくつもに知れないことに出くわしました。

“変人”と呼ばれて方は特に発見があり、時間を忘れて調べてしまいます。

「逆転の発想」などは現在も大いに参考になります。
名言集とともにかみしめたいと思います。

最後までお読みいただきありがとうございます。

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