瀬古利彦さんのWiki風プロフと年収は?嫁・息子さんはどんな人?

こんにちは!今日もご訪問いただきありがとうございます。

11月30日の「笑ってこらえて!」に、あの華麗なる走行スタイルで人気のあった

瀬古利彦さんが出演します。

当時の記録は、超有名で、数々の帰路子を残し、走行スタイルは、
標準型(と勝手に付けましたが?)の省エネ走行で、“美しい”の一言に尽きます。

男性では、世界に通じ理選手が伊達いないのが残念ですが、
知らない人も多いのではないでしょうか?

紹介とともに調べました!

トランプショック関連記事は以下にあります。
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瀬古利彦さんのwiki風プロフ

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◆ 名前:瀬古利彦(せことしひこ)

◆ 生年月日:1956年7月15日(60歳)

◆ 出身地:三重県桑名市

◆ 身長:170㎝

◆ 体重:62㎏

◆ 学歴:四日市工業高校卒業、早稲田大学教育学部卒業

◆ 職業:陸上競技指導者、元陸上競技・マラソン選手、DeNAランニングクラブ総監督

中学時代は、野球の投手をし、甲子園を目指すつもりでいたようですが、県大会に出場しても早々に負けたそうです。

1年生の時に、5キロ走大会で優勝し、陸上部から懇願されて大会に出るようになったのです。

市の陸上大会や、県大会でも優勝し、陸上競技をするようになったのです。

高等学校は、陸上に強豪校の四日市工業高校へ進学したのです。

 

選手時代の戦績は?

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◆ 高校1年:山形インターハイ800m・・3位

◆ 高校2年:三枝インターハイ、800m、1500m優勝、

◆ 千葉国体、1500m、5000mで優勝。

◆ 茨城国体では、前年度に続き2年連続で1500m、5000mの二冠を達成。

――日本中長距離史上、特筆される才能を持った好選手と評価されていた

◆ 全国高等学校駅伝競走大会では3年連続で「花の1区」(10km)に出場し、2年生時には区間賞を獲得した!

◆ 早稲田大学OBからの勧誘で、を受験した。しかし合格に至らなかったため、
高校を卒業後、南カリフォルニア大学へ在籍しながらの「浪人生活」を送り、
翌年早稲田大学教育学部に合格した。

◆ 早稲田大学競走部への入部直後、中村清監督から「君、マラソンをやりなさい」と勧められ、
中距離からマラソンへ転向。

◆ 箱根駅伝では1年次から4年連続で「花の2区」を走り、3、4年次で区間新を記録した。

◆ 大学1年:京都マラソン(旧)で初マラソン。10位となり新人賞を受賞。

◆ 大学2年:福岡国際マラソンでは日本人最高の5位入賞を

◆ 大学3年:3年生の1978年の福岡国際マラソンで初優勝を果たす

◆ 大学4年:1979年4月、海外レース初挑戦となるボストンマラソンに出場、ビル・ロジャース(アメリカ合衆国)に次いで2位となる.

◆ 同年:福岡国際で宗兄弟との接戦を制して連覇

◆ 1980年:モスクワオリンピックの代表に選出されたが、オリンピック開催年の1980年、
大学を卒業して中村監督とともにヱスビー食品に入社したが、
ソ連のアフガニスタン侵攻による西側諸国のボイコットで出場はならなかった。

◆ 1981年2月の青梅マラソンに参加、優勝

ボストンマラソンでは日本人として7人目の優勝を飾る

◆ 1983年2月の東京国際マラソンで優勝
福岡国際マラソンでも優勝し

◆ 1986年のロンドンマラソンで1年8ヶ月ぶりにフルマラソンを走り優勝する

◆ シカゴマラソンで優勝。

◆ 1987年4月、ボストンマラソンに3度目の出場し優勝!「瀬古はグレート。世界ナンバーワンだ。」と強豪選手もコメントした、

◆ 1981年に脚を故障し、トレーニングと針治療で何とか競技を続けたが、1987年には引退を余儀なくされました。

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奥さんと子供さんは?

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ロサンゼルスオリンピック後、お見合いをし、中村監督の反対はあったが結婚に踏み切ったのです。

国産は、美恵さんです。ハイメ手のデートがフライデーされたそうで、わきの甘さを露呈したという事でしょうか?

お子さんは、4人で順番に

長男:昴・(すばる・27歳)、
次男:亜士武(あとむ・25歳)、
三男:天哩(天理・22歳)、
四男:聖醐(しょうご・17歳)さんです。

陸上をやっているのは三男だけである。東海大浦安高時代に800mでインターハイに出場し東海大に進んだが、伸び悩び2年冬にマネージャーに転向し駅伝主務を務めているそうです。

四男は高校で一度陸上部に入ったが辞めてアメフトを始めたという[27]。

結婚については面白い伝説

それは瀬古さんの結婚に関して、中村監督主導で公募するという前代未聞の行動をとろうとしたのですが、
さすがにそれには反発し、それ以前から独り立ちしたいとしていた瀬古さんは、お見合いで結婚を決めたのです。
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寝食を共にしてきた師弟の間柄で、徹底管理されていて、なんでもいう事を聞くものと思っていたのですが、
瀬古さんも十分成長した青年です。当然反発もしますよね!

結婚したのは、1985年の6月14日です。

相手は、材木商の娘で保母さんでした。渡辺美恵さんです

それまでに瀬戸さんは、お見合いを6回もしていたそうです。

引退後と年収は?

引退後はヱスビー食品陸上部監督に就任したのち、
1990年より4年間は母校早稲田大学競走部のコーチを兼任しております。

2011年12月21日、東京都教育委員に再任されておりますが、2013年に辞任しました。

2013年4月からは、 DeNAランニングクラブ総監督となる。

恩師の中村監督に育てられましたが、青年期の一番感受性の強く成長するときに寝食を共に過ごしたのです。

そこで、出会ったことによりかなり大きな影響を受けたことでしょう!人生も変わったことでしょう!

口癖は、

「マラソンは芸術です」、「若くして流さぬ汗は、年老いて涙となる」、「朝に新しく生まれ、夜は明日の復活を信じて床に就く、一日一日が命のやり取りだ。」、「一日一生(いちじついっしょう)」、「天才は有限、努力は無限(素質のある選手に対して)」、「真鍮は真鍮、磨いても金にはなりません(素質のない選手を指して)」。また、「年に一度選手に大輪の花を咲かせるのが私の使命」

とも語っていたのです。

このことが、瀬古さんの骨の髄までしみ込んでいると考えてよいのではないでしょ
うか?

<中村監督は、>

4年後のソウルオリンピックに向けて瀬古の再起を図ろうとした矢先、1985年5月25日、趣味の渓流釣りに出かけた新潟県の魚野川で岩から足を滑らせて川に転落死した。71歳でお亡くなりになられました。

瀬古さんの年収は?

瀬古さんは、現在は“DeNAのコーチ”を担当しております。

へ近年収は、約750万円のようです。コーチという役職分がどの程度加算されるかでしょう!

そのほかに、あまりうまくはないですが解説者としての収入がありますね!

箱根駅伝や、世界陸上の解説者のギャラ次第ですが、5~10万円のようです。

陸上関連の解説は少ないですね!

それに瀬古さんは、増田明美と違って失言が多く、解説者には向いていないようです。

(増田の「小ネタ収集3原則」は、自腹で単独取材、監督やコーチと一緒に食事、母親の電話番号をゲットと言われておりますが、評判が良い反面、嫌いだという方もおられます。)

 

東京オリンピックに役割は?

2020年の東京オリンピックに向けて、プロジェクトが設立されて、その総監督が瀬古利彦さんに決まりました。

低迷が深刻なマラソンは、長距離と一括して強化を行う「長距離・マラソン強化戦略プロジェクト」を新設し、
リーダーには現在、DeNAの総監督を務める瀬古利彦氏(60)が就任した。

“お家芸”復活へ“レジェンドランナー”の手腕に大きな期待がかかるのです。

マラソン通算戦績は、15戦10勝ですが、肝心のオリンピックでは14位と9位で、疑問視する方もおられます。

日本で開かれるオリンピックなので、力が入ります。

 

まとめ

全盛期当時の瀬古さんのレース運びは、前には出ずに先頭集団の中で位置を窺い、
終盤の爆発的なスパートにより勝利するというものであり、
先行逃げ切り形のレースを実行しておりました。

これは、中村感得の研究と分析による絶妙のコンディショニング、
中距離出身で「ラスト400mでは世界に敵なし」
とまで言われた終盤のスパート力、スパート地点を見極める抜群のレース勘が
一体になって初めて可能なものであったのです。

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果たしてこのように、進めるのでしょうか?

自分の経験と各選手の特徴を見抜いてどのような戦術を立てるかが見ものです。

本番前に何度かお試しのレースがあるので、それを見たいと思います。
中村監督の口癖がどこまでしみ込んでいるかも面白い視点だと思います。

以下に再度示します。

「マラソンは芸術です」
「若くして流さぬ汗は、年老いて涙となる」、
「朝に新しく生まれ、夜は明日の復活を信じて床に就く、一日一日が命のやり取りだ。」、
「一日一生(いちじついっしょう)」、
「天才は有限、努力は無限(素質のある選手に対して)」、
「真鍮は真鍮、磨いても金にはなりません(素質のない選手を指して)」。

また、「年に一度選手に大輪の花を咲かせるのが私の使命」とも語っていたのです。

最後までお読みいただきありがとうございます。

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