渡辺和子【置かれた場所で咲きなさい】いったいなぜ修道女になったのか?二・二六事件との関係とは?

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渡辺和子ー8
「自由というのは、何でもしたい事をする事ではなく、
自分が本当にすべき事が出来る人なのです。」

彼女による”愛と勇気の言葉”は人生を豊かにする。
といわれております。

いったいなぜ修道女になったのか?
そこには、激動の昭和を生き抜いた壮絶な人生があったのです!

【金スマスペシャル】で10月30日に放送されました。
そこから概要をあ伝えします。

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1927年 北海道旭川市で4人兄弟の末っ子として生まれた。
父は、渡辺錠太郎 陸軍中将 旭川第7師団長を務めた。

後に陸軍最高位の一つ陸軍教育総監となった。

和子が生まれた時は、父は53歳、母(すず)は44歳。
前に3人の子供もいたことであり、
母は、和子の出産をためらったが、
父は「産むこと」を勧めたのです。

「母は、産みたくなかったが、
父が「産んどけ」って言って、それでわたしが生まれたのです。

やっぱり家に帰って赤ん坊を抱くっていうのは、
きっと嬉しかったんでしょうね!
だって抱いたことはほとんどなかった人でしたから・・」

文学博士と呼ばれていた父は、
4人兄弟の末っ子の和子を溺愛したという。

「父にしてみたらかわいかったん出ようね!
”この子とは長く一緒にいられないから可愛がるんだ”
って言ってました。」

その後、和子が3歳のとき、陸軍大将だった父は教育総監に就任した。

そんな父の口癖は、

「戦争は勝っても負けても国が疲弊するだけだ!
 武運が強いのはいいが、戦争だけはしてはいけない」

第一次大戦後、戦争に突き進もうとする日本の
ブレーキー役となっていた。

そして、翌年日本史に残る大事件に襲われるのである。
あの”二・ニ六事件”である。

当時日本は、世界恐慌の影響で深刻な経済不況に陥り、
国民の不満と不安は絶頂に達していた。

そんな中、昭和維新を掲げた青年将校たちが、
理想の国家を目指し、政府関係者の暗殺し、
武力によるクーデターを画策したのであった。

この歴史的事件は映画でも描かれている。

国定の中心にいた父・渡辺錠太郎も
標的の一人に挙げられたのである。

昭和11年2月26日早朝、いわゆる二・二六事件が決行された。

雪が降りしきる中、総勢1000人以上の兵士が二手に分かれ、
午前5時白鳥大将以下400名は、
陸相官邸、内閣総理大臣官邸、警視庁初め、
陸軍省、参謀本部、朝日新聞社などを占拠、

そして、午前5時5分  蔵相私邸、立原中将以下を100名が襲撃し、
蔵相射殺、巡査1名負傷した。

さらに、午前5時5分 内大臣私邸 本間大将以下150名が襲撃し、
長官重傷 巡査2名負傷した。

こうして次々と国家の重要人物の暗殺が行われる中、
ついに渡辺家にもその時が訪れるのです。

その日9歳の和子は父と1階の和室で眠りについていた。
”起きろ!”の怒声に父は、すぐ和子をゆり起して
”お母さんの所に行きなさい!”と和子を逃がした。

「私は寝ぼけ眼で、何が起きて言うかわからなかった。
 父はすぐに覚悟していたからでしょう?
 拳銃を取り出し、真綿の布団を体に巻きつけて身を隠した。」

そんな中、母のもとへ向かった和子だったが、
母は、

「あなたたちはどこの部隊ですか?
これが兵士のやり方ですか!お帰りください!」

と言って家に入るのを制止したのです。

和子は仕方なく寝室へ戻ると、布団に隠れていた父は、

「とても困った顔をして、せっかく逃がしてやったのに・・
それで今度は眼で合図して籃胎塗りの上等な座卓の
後ろに入れと眼で合図したのです。」

和子は座卓の裏に隠れた。その時、

「その途端に、襖がこのくらい(約20㎝)開きまして、
それも皮肉なことに父が提言して日本に輸入された
軽機関銃で撃ち始めたのです」

兵士たちは、父に43発もの銃弾を発砲し、
和子の隠れる座卓に裳2発の流れ弾が当たった・

「血痕とかが辺りに散っておりました。
でも私は黙ってお父様が隠してくれたから、そこにずっとおりました」

父は即死、和子はわずか1メートルの距離で父の惨殺を目撃したのである。
和子が隠れていたという実際の座卓が杉並郷土博物館に保存されている。

幸いにも銃弾は貫通せず、和子は怪我ひとつなかったが、
銃痕が現場の凄惨さを物語っているのです。

「私の最初の”人の死”っていうのは
父の凄惨な死であったのです。ただ涙は出ませんでした。

”軍人の子は泣くようなものじゃない”

っていうのがずっと伝わっていたんですね!
だから母も涙一つ流しませんでした。
兄も姉も泣きませんでした。」

と思い出したように語ったのです。

激動の昭和史の中で壮絶な死を遂げた父・渡辺錠太郎

「父はある意味で、娘に看取られて死んだのです
そのために”産んどおけ”と言ったのかもしれません。
だから唯一私が父を最後に見た人間なんです。」

その後、永田町一帯を占拠した青年将校たちだったが、
政府軍の鎮圧を受け事件の首謀者は銃殺刑に処されて
二・二六事件は幕を閉じたのです。

わずか9歳にして父親を目の前で失ったか和子、

そんな彼女に母は、

「和子!お父さんの名前を辱めるようなことをしてはいけませんよ!
 これからはお父さんと二人分厳しくしつけますからね!」

と言って母は和子を厳しく育てたのです。

「いいかい和子!努力して、我慢して、苦渋して、そして一番になりなさい」

”一番になれ”が母の教えで、テストで100点を取らないと
家に入れてもらえないこともあったと言う。

そんな母の教えで、競争心の強い、負けず嫌いになった和子は、
小学校卒業後、カトリック系の女子校 雙葉高等女学院に入学、
母との約束通り首席で卒業した。

しかし、何でも一番になろうとする和子に
あるとき友人が”和子さんって鬼みたい”と言われた。

それは母の言葉に従って生きてきた和子にとって思いもよらない言葉だった。

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このときのことを著書の中で、

【和子さんは鬼みたいと同級生に言われ、家に帰ってからも、
厳しい躾をする母に反抗する自分だったと思います。

自分でもそんなずさんな気持ちで死にたくないとの思いから、
ある日、母校の雙葉にシスターを訪ね、悩みを打ち明けたのです。】
(著書「面倒だから、しよう」より)

「サー、私もっと優しい人になりたいです!」

するとシスターは、
「和子さん 今のご自分でおいりなら洗礼を受けなさい」
「そうですか?生まれ変わらせてくれますか」

こうして和子は、18歳の時に洗礼を受けキリスト教徒となったのです。

しかし、時は太平洋戦争真っ只中、アメリカ軍の戦闘機も東京を襲っていた。

母は、「うちは、浄土真宗だ!あんたは敵国の宗教に乗り換えるのか!

「勝手にしなさい!」と洗礼には猛反対でした。

「ともかくいけない!戦っている敵の国の宗教と考えられる。
”そんなものにあんたが入ることは許さない!”
”うちはずっと浄土真宗だ!”」

洗礼を受ければ人は生まれ変われるはず!
そう信じてキリスト教徒になった和子だったが、母からは、

「難しい顔して、感謝の気持ちもない、それでもクリスチャンなの?」

当然ながら、洗礼を受けたからと言って急に人が変われるはずもなかった。

「それでもあなたクリスチャン?
あんた洗礼を受けて変わったと言うが、
ちっとも人の悪口は減らない。

そして、意地も悪い。お母さんの手伝いもしない。許せない。
というわけです。

神父様の言葉より、よっぽどその言葉が効いていたんですけど・・・」

信仰は持つ物ではなく生きるもの、
自分が変わらないと人は変われないことに気付いた和子でした。

その後日本が敗戦すると、和子の家も経済的に苦しい生活を強いられた。
そこで彼女は、上智大学でアルバイトをしながら
聖心女子大学へ通学し、勉強に励んだ。

1954年 上智大学大学院の修士課程を修了。
卒業後は、キャリアウーマンとしてアメリカ人の上司のもに勤め、
苦しい家計を支えたのです。

そして、家計が安定すると、

1956年 29歳の時にナミュール・ノトルダム修道女会へ入会。

その後、5年間アメリカ修道院で生活したのち36歳の異例の若さで
岡山県のノートルダム清心女子大学の学長に抜擢されたのです。

そして

1990年には、ノートルダム清心女子大学の名誉学長
およびノートルダム清心学園の理事長に就任。
現在も教壇に立ち続け、温かいメッセージを送り続けているので。

「恋愛、結婚、子供育てる女性としての道ではない事を
選んだ事に両親は何と言われたのですか」

との大竹の問に、

「最後の日、明日、修道院に入る前の夜、一緒に入浴し、
背中を流してくださり、

”どうして結婚しないのかねェ~!”
”結婚だけが女の幸せじゃないからね!”」と母は言ったのです。

こうして激動の人生を歩み、修道女となった渡辺さんだが、
彼女にはどうしても守れなかった聖書の教えがあった!

その教えは、

【汝の敵を愛せよ】

だった。

それは修道院に入って10年余りがたった頃、
出演依頼を受けた番組があった。
二・二六事件を取り扱うものだった。

事件で殺された側の生き証人として、
番組出演を頼まれたのであった。

こうしてテレビ局へ向かった渡辺さん、
しかし、そこには信じがたい光景があった!

なんと、番組には父を殺した元兵士の一人も出演したのであった。

「私は、全然知らなかったのです!”失礼だとと思うんですよ!
”自分だけかと思ったら、男性が一人いらっしゃったのです。
2人で話しようがないわけです。」

殺された側の遺族と、殺した側の兵士、
しかも渡辺さんは目の前で父を射殺されていた。

「父を殺した人たちを”憎んでいますか?”

とよく聞かれました。その度に私は、

”いいえ、あの方たちにはあの方たちの大義名分がおありになったと思いますので、
お恨みしておりません”と言っていました。」

(『面倒だから、しよう』より)

その後、場がなごむようにとテレビ局が持ってきたのは、
一杯のコーヒーだった。

だが、なぜだろうか?

”どうしてもそのコーヒーを元兵士と一緒に飲むことはできなかった”

「飲もうとして、口の近くまで持ってきても飲めなかった。
それは、結局心の奥底から許していなかったということでした。」

「”許す”って難しい!相手にもよるんです。」

【私がもし、聖書の中の『汝の敵を愛せよ』ということを実行するとすれば、
 せめて相手の不幸を願わないことです。】

【人間は弱いものです。口ではきれいなことを言っても
 なかなか体が付いてこないことがあります。
 それを体験できたということは恵みであったと思います。】

(『面倒だから、しよう』より)

「今でも私には、ある意味で許せない人がいます。
でもその人のことを

”今その人がどうなったとか、それはもう思わないようになりました。”」

頭で許しても体がついて行かないことがある。

【せめて相手の不幸を願わないことを心に留めて生きたい】

というのである。

「結局話はなさらなかったんですか?」

「たぶん私には、悪い癖があって、父はあの立場で殺された。
元兵士はたまたま1400人の中のお一人にすぎない。
その方になぜ私が話しかけなければならないのか?
という本当に人間臭い物があったと思います。
相手の不幸を願わないということですね!」

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