渡辺和子の本【置かれた場所で咲きなさい】「マザー・テレサの教へ」の基となるその生涯は?

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マザー・テレサー1

渡辺和子の本【置かれた場所で咲きなさい】

彼女が感銘を受けたマザー・テレサの教えも数多く書かれております。

その前に、「マザー・テレサの教へ」の基となる生涯は?

【金スマスペシャル】で10月30日に放送されました。
そこから概要をあ伝えします。

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「どんな方でしたか?」
の質問に、渡辺さんは、

「厳しい眼差しに、ちょっとびっくりしました。」
「マザーが日常接している人たちの苦しみ、人間として扱ってもらえない、
そういう人たちの気持ちが厳しさになっていた」

と紹介しました。

では、世界中の人々から慕われる修道女
マザー・テレサの生涯を見てみましょう。
1910年 旧ユーゴスラビアに末っ子として誕生。
幼いころから彼女は、
”困った人を救える「立派な人間になりたい」と思っていた”

1929年 (18歳)カトリック修道女になることを決意し、
ふるさとを旅たち単身インドへ赴いた。

そこで修道院に入り、神に仕える生活を送りながら、
修道院にある女学校で17年間教壇に立った。

この学校は修道院内にあるオアシスのように恵まれた環境だった。
一歩外へ出るとスラム街という場所だった。

そんなある日、スラム街の悲惨な現実を知ることに、
銃声を耳にし外へ出ると、群衆の争いの中だった。

1946年 当時のインドカルカッタはヒンズー教徒と
イスラム教徒の間で闘争が起きていた。
町は殺しあいの場と化していた。

町には数百万人の難民が溢れ、
道端で多くの人々が餓死していったのです。
(カルカッタ大虐殺)

とそのの様子をマザーはこう述べている

『通りに転がっているたくさんの死体。
   あるものは突き刺され、あるものは殴り殺され、
   乾いた血の海の中に考えられないような姿勢で横たわっていた。』
(マザー・テレサの言葉より)

マザーは、満たされた修道院とスラム街のあまりの差に思い悩んだ。
今自分に何が出来るのか?しかし、その答えはすぐには見つからなかった。

そして、闘争から間もなくマザ-は瞑想するためダージリンの修道院へ向かった。
その途中で、彼女の運命を変える奇妙な出来事が起きたのです。

道に倒れている男性を見つけて近づくと、
”私はかみ(?)”と喘ぎ、倒れていた男性はそのまま息を引き取った。

するとそのそばに居合わせたマザーの身に不思議なことが・・・

その時、聞こえてきたのは、

「もっとも貧しい人に仕えなさい」

という神の声だった。
この啓示を受けてある行動をとった。

1948年(38歳)修道服からインドの民衆が着るサリーに着替えて
一人スラム街へ!所持金は5ルピー(約150円)のみだった。

当時のインドは、イスラム教とヒンズー教がほとんどで、
異教徒が活動するには困難を極めたのです。

『スラムの人たちをたった一人ですくうのは途方もないことだった』

自分の無力さに苛まされていた頃、
マザーの日記のはこんなことが書かれいた。
「神よ、私は孤独です。
 この孤独を耐え抜くことが出来るでしょうか?
 自分の弱さを隠すことができません。
 涙が止まらないのです。
どうか、私に自分と戦う勇気をください。」(マザーテレサの日記より)

彼女がスラムに来て半年が過ぎたころ、
一人の教え子がやってきて

”私は、マザー・テレサについて行きます。
一人ではできないことでも二人ならできますから・・”

トマザーのもとに協力者がやってきたのです。

次第にその数も増え、

1950年(40歳) 12人の教え子とともに
「神の愛の宣教者会」を発足させた。

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そんなある日、カルカッタの路上である人と出会った。
その人は死にかけて老人だった。

看病しようと教え子と友の再度駆けつけると、
姿はなく、死んだので運ばれていったとのことだった。

この時マザーは一つの決心をした。

「貧しい人々が安らかに死を迎えられる”家”を作ると心に誓った。」

1952年(42歳)「詩を待つ人の家」を発足した。

路上で死にかけている人を集め、僅かな薬と食事を与え
”安らかな死を迎える”ための施設を作ったのです。

場所は役所に提供してもらった。ヒンドゥー教の寺院だった。
ところが、キリスト教の修道女が寺院を乗っ取った!
そこに連れて行かれるとキリストに改宗させられる
という噂が立ち始め町の人々は”出ていけ”と
暴動まがいの行動を起こしたのです。

若者が入ってきて

「出て行けよ!死にそうな人間に、無理やり洗礼を受けさせる気だあろう!」
「”どの宗教も尊重しない!良き信者であればそれで十分!
 キリスト教でもイスラム教でも勿論ヒンズー教でも同じだ!”」
 とマザー入ったのです。

暴動の代表が突入してきて見た光景は、

”献身的な看病を続けるシスターの姿があったのです。”

暴動は、”出ていけ!”の合唱があったが、

暴動の代表は、
「追い出したりしていいのか!
しかも見捨てられた人を世話してくれているのに、
あのマザーは女神のように慈悲深い人だ」と群衆に告げたのだった!

実際マザーは、宗教・民族・年齢・性別・社会的地位も関係なく
必要とする人に無償の愛の手を差し伸べたのです。

彼女は生前こんなことを言っていたのです。

『望まぬ人として人生を送った彼らに愛され、
 大事にされる人として最期を迎えてほしいのです。
 たとえ人並み以下の人生でも天使のように死ぬのです。』

【この世で一番大きな苦しみは、一人ぽっちで、
 誰からも必要とされず、愛されていない人々の苦しみです。】
(マザー・テレサ 愛と祈りの言葉)より

こんなマザーの信念は異教徒たちの心も揺さぶり、活動はさらに広がって云ったのです。

1955年(45歳)「孤児の家」設立・宗教も関係なく貧しい子供たちを引き取った。
1969年(59歳)「平和の村」ハンセン病患者の施設

【私の行いは、大河の一滴にすぎない。
 でも何もしなければその一滴も生まれないのです。】

と述べております。

1979年12月11日(69歳) 「ノーベル平和賞を受賞」

【私はノーベル平和賞の受賞者には値しません。
 でも誰からも見捨てられ愛に飢え、
 死に瀕している世界の最も貧しい人々に代わって賞を受けました】
(ノーベル平和賞授賞式)より

賞金19万ドル(4400万円)はすべて混ぜしい人々の為に使用されてのです。

そして、

1997年9月5日 87歳で生涯を終えたおです。

国民のほとんどがイスラム教徒ヒンドゥー教というインドで、
異例ともいえる国葬が行われたのです。
マザー・テレサに最大限の敬意を表したのです。
宗教を問わず世界中から100万に以上の参列者があり、
1週間にわたり続いたのです。

ノーベル平和賞初め、教皇平和賞、優秀修道会賞、
アルバート・シュバイツァー賞、ジョン・F・ケネディ賞を受賞していたのです。

遺品は、「古びたサリーとカーディガン」と「擦り切れたサンダル」だけだったとのことです。

しかし、マザーが世界に残したものは計り知れないのです。

たった一人で始めたマザーの活動は、世界139ヵ国に広がり、
シスターは5144人、施設は全世界に750ヵ所以上になっております。
エイズ患者、アルコール中毒者、孤独な老人の為のホーム、修道院など・・

生前にはこう語りかけていたのです

【私たちは余で大きいことはできません、ただ、小さな事を大きな愛でするだけです】

渡辺先生の心に残る言葉は、

「私たちは祈りを唱える人ではなく、祈りの人になりましょう」

とおっしゃったんです。

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