上村松園の代表作品まとめ!牡丹雪はどこの美術館で見れるの?

こんにちは!今日もご訪問いただきありがとうございます。

「美の巨人たち 上村松園『牡丹雪』戦火の中で生まれた美人画の傑傑作!」

2月18日に放送されます。

絵はどこかで見たことがあると言う方は、多いのでしょうが、
実際は、ご存じない方が多いのではないでしょうか?

ましてや、絵の中の細かい仕草や、作者の想いまでは、なかなか伝わらないものです。

この機会に男尊女卑の明治時代に、敢然と立ち向かい自分の画風を築き上げた

上村松園さんに触れて見ましょう!

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上村 松園のwiki風プロフ


◆ 名前:上村 松園(うえむら しょうえん)

◆ 別名:上村 津禰(うえむら つね)

◆ 生年月日:1875年4月23日(74歳没)

◆ 出身地:京都府下京区

◆ 学歴:- 京都府画学校(現:京都市立芸術大学)

◆ 職業:日本画家

◆ 家族:1902年(明治35年) – 長男・信太郎(松篁)が誕生。上村淳之は孫。

葉茶屋「ちきり屋」の次女として生まれたのです。

母仲子は女手一つで松園と姉、二人の娘を育て上げた。

「私は母のおかげで、生活の苦労を感じずに絵を生命とも杖ともして、それと闘えたのであった。
私を生んだ母は、私の芸術までも生んでくれたのである」

と述べており、才能を見た母は、「すべてを“絵”のために全力投球せよ」と、教えたのです。

京の伝統文化に育まれた松園は、明治・大正・昭和を通して生涯、

「一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香高い珠玉のような絵」、

「真・善・美の極致に達した本格的な美人画」(いずれも松園のことば)

を念願として女性を描き続けたのです。

1948年(昭和23年)女性として初めて文化勲章を受章しました。

上村 松園の略歴

◆ 1875 (M08) :4/23 京都 生まれ。本名:津禰(つね)

◆ 1887 (M20) :京都府画学校入学。鈴木松年の画塾に通う

◆ 888 (M21) :松園の号を受ける。松年の京都府画学校退職に伴って退学

◆ 1890 (M23) :第3回内国勧業博覧会にて『 四季美人図 』が一等褒状を受賞

◆ 1893 (M26) :幸野楳嶺塾に移る。1895 楳嶺の死後、竹内栖鳳 に師事する

◆ 1900 (M33) :第8回日本絵画協会、日本美術連合共進会にて『 花ざかり 』が二等銀賞受賞

◆ 1915 (T04) :第9回文展に『 花がたみ 』出品

◆ 1934 (S09) :2月 母仲子没。10月 第15回帝展に『 母子 』参与出品

◆ 1937 (S12) :『 雪月花 』を皇太后に献上

◆ 1943 (S18) :随筆集「青眉抄」刊行

◆ 1948 (S23) :女性初の文化勲章 受章

◆ 1949 (S24) :8/27 京都にて逝去

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上松松園の代表作品

【位置づけ】:

「女性は美しければよい、という気持ちで描いたことは一度もない。
一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香り高い珠玉のような
絵こそ私の念願とするところのものである」

と語るのです。

【生涯と作風】:

明治8年、日本が近代国家として産声をあげて間もない
混迷の時代に生まれた松園。

女性が芸術家になるには現在よりもずっと難しい時代に、
母の支えを得て、12歳で鈴木松年のもとに絵を学び、
幸野楳嶺、竹内棲鳳と師事し、諸派の研究に励み独自の作風を
確立させていきました。

描くモチーフは美人画一筋でしたが、中国の故事、
日本の古い物語、能の主人公等歴史、物語をテーマとした作品や、
母子像などの何気ない日常を描いた風俗画など様々な
画題を手掛けています。

母を亡くした後には、「母子」「青眉」「夕暮」「晩秋」など
母を追慕する格調高い作品が生まれた。

気品あふれる作品群の中で、特異な絵が2枚ある。「花がたみ」と「焔」(ほのお)である。

【上松松園の代表作品-1】


「序の舞」(重要文化財) … 1936年(昭和11年)絹本着彩 233cm×141.3cm
(東京藝術大学大学美術館)

初期の明治時代の作品です。

「なにものにも犯されない、女性のうちにひそむ強い意志」を、
静かなうちに凛として気品のある仕舞「序の舞」を通して描いている。

タイトル「序の舞」とは、能の舞のクライマックスをなす部分で、
序の舞、破の舞、急の舞とあるうちで、
最も動きが遅く静かな舞です。

振袖の鮮やかな朱色の色彩が見事ですが、
女性の表面的な美しさや官能美よりも気品ある至高の精神を
テーマとしており、目元から指先まで不思議な緊張感が漂います。

松園自身「私の理想の女性の最高のもの」と語っています。

それは女性が描く“真に理想の女性像”だったのです。

様々な苦悩を克服して描かれたのは、燃える心を内に秘めるが如く、
朱に染められた着物を着て、指し延ばした扇の先を、
ただ真っ直ぐに、毅然として見つめる女性だった。

「何ものにも犯されない女性の内に潜む強い意志をこの絵に表現したかった。
一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香り高い珠玉のような絵こそ、
私の念願するものなのです」

と、松園さんは語っているのです。
【上松松園の代表作品-2】

「母子」(重要文化財) … 1934年(昭和9年)(東京国立近代美術館)

幼子が何かを見つけ、母の襟元をつかんで身を乗り出しています。

母親は優しく子を抱きながらその視線を追い、穏やかな笑みを浮かべています。

「私を生んだ母は、私の芸術までも生んでくれたのである」と追想しています。

この作品は松園が59歳、孫をさずかり、最愛の母をなくした年に描かれました。

微笑む口元にのぞく鉄漿(おはぐろ)は既婚の印、
そり落とした青い眉は子どもを産んだ印です。

この習慣をご存知ですか?“絵”を通してしかお目にかかることはありませんよね!

なぜこんなことをしなければならなかったのでしょうか?

鉄漿(おはぐろ):民間には明治時代末期まで見られた。
むらなく艶のある漆黒に塗り込めたものが美しいとされた。)

青眉(せいび):当時、女性は嫁入りして子供をもうけると眉をそる風習があった。
その青く瑞々しい剃りあとは女性の美しさの象徴だったのです。)

幼子を抱く母親の姿に、若き日の自分や、亡くなった自分の母の姿を重ねたのかもしれません。

【上松松園の代表作品-3】


「牡丹雪」
(山種美術館:所在地, 〒150-0012 東京都渋谷区広尾3-12-36.)

画面の左下に人物を配置した大胆な構図で、
冬の寒さより雪と女性の美しさが際立って感じられる名作です。

昭和19年、太平洋戦争末期に日本軍へ献納するために描かれました。

一見軍に納めるとは思えない絵ですが、そこにはある決意が秘められていたのです。

『雪の降る中を、傘を傾けて、二人の町娘が歩いています。

一人は、寒いのでしょう、袂で傘の柄をくるむ様にして持ち、
片手で裾を持ち上げ、前かがみになっています。

もう一人は御高祖頭巾を被り、後ろを振り向いています。
動きのある絵ですが、清らかで、凛とした趣きがあります。

この清らかさこそが、松園の作品を際立ったものにしています。

傘をさして雪の中を行く女性の姿は初期の頃からよく描かれていて、どれも浮世絵の
雰囲気を残し、動きがあって、面白い絵になっています。』

と、『表現されておりますが、寒い冬の後には、必ず“春”が訪れることを意味しているようです。

【上松松園の代表作品-1】

【焔】(東京国立博物館)

(▲【焔】の下書き)

社会の偏見とは敢然と戦った松園だったが、40代に入って年下の男性に大失恋し、スランプに陥ってしまう。

(▲【焔】の製作姿)

1918年(43歳)、そこから生れた作品が問題作『焔(ほのお)』だ。

上村松園の代表作ですが、他の作品とはかなり趣きが異なります。

謡曲「葵上」の、光源氏の正妻、葵上に嫉妬する六条御息所の生霊の姿です。

能「葵の上」の六条御息所が生霊となって葵の上を呪い殺そうとする場面に取材しています。

嫉妬に翻弄される女の表情、着物に描かれた大きな蜘蛛の巣が執拗な怨念を暗示しています。

この絵でも金泥が入っており、乱れた髪を口で噛むなど何ともオドロオドロしい。

松園自身、「なぜこのような凄絶な作品を描いたのか自分でも分からない」と語り、

凄みのあるのは顔の描写で、頬や額は青ざめ、お歯黒の口は髪を噛んでいます。

能楽師の助言で、能面の目に金泥を塗る泥眼という技法を借り、
絹地の裏から目に金泥を塗って、異様な光を見せているとのことです。

指も細く、左手の小指も立って、感情の烈しさを表しています。

この頃は制作に行き詰っていた時期にあたり、
その苦しみを作品に込めたもので、
作者自身が絵の人物を恐ろしいと思ったそうです。

(▲図書が購入できます)

上村 松園の想いは?

カリキュラム優先の学校よりも、尊敬する師匠の内弟子となって修業する方が
身になると思い翌年退学、鈴木松年に師事したのです(1888年)。

めきめきと腕をあげる彼女は“松園”の号を与えられた。

明治時代の初期のころです。親戚や周囲には彼女のこうした
生き方を非難する声も多かったようで、
さぞかし、つらい思いをされたことでしょう!

明治の世では「女は嫁に行き家を守ることが最上の美徳」とされており、
教育を受けたり絵を習うということは中傷の対象だったのだそうです。

飛ぶ鳥を落とす勢いで活躍する松園は、
「女のくせに」とライバルの男性画家たちから

激しい嫉妬と憎しみの対象になったが、
妬みと同時に軽蔑の意志も感じられます。

それは晩年に松園が「戦場の軍人と同じ血みどろな戦いでした」

と記すほどで、女性の社会進出を嫌う保守的な日本画壇の中で、
ひたむきに、孤高に絵筆を握り続けた。

展覧会では、作品に危害を加えるものも出現したが、
ひるむことはなかったそうです。

1934年、ずっと影で松園を支えてくれていた母が死亡。

その2年後の1936年、61歳の松園は代表作となる『序の舞』を完成させたのです。

それは女性が描く“真に理想の女性像”だった。

様々な苦悩を克服して描かれたのは、燃える心を内に秘めるが如く、
朱に染められた着物を着て、指し延ばした扇の先を、
ただ真っ直ぐに、毅然として見つめる女性だった。

「何ものにも犯されない女性の内に潜む強い意志をこの絵に表現したかった。
一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香り高い珠玉のような絵こそ、
私の念願するものなのです」

と、松園さんは語るのでした。

まとめ

明治時代から昭和(24年)までの生涯で、
これほどの女性がいたとは“驚き”ですよね!

厳しい男尊女卑の中に在って、これほどの“美”を追求し、
表現するのは並大抵のことではなかったことでしょう。

画像の中の“美女”を通じてその思いが伝わってきます。

また、私たちはそれお汲み取らな帰らばなりませんね!

果たして、テレビでは、どのように表されるのでしょうか?

目が離せませんね!

最後までお読みいただきありがとうございます。

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